ベースロード電源
「発電コストが低廉で、昼夜を問わず安定的に稼働できる電源」だそうだ。明らかにお天気任せの太陽光と風力発電とわざわざ対比する、使い古されたおとぎ話。太陽光とか風力発電はマイナーなもので、いまの日本で発電の主力は石炭火力だから、まずこれと比較すべきだろう。石炭火力もベースロード電源に挙げられているが、原発とは大きく違う。
石炭火力の場合、ベースロードを担うとともに、需要の大きな季節にのみ稼働したり、真夏の昼間など需要のピーク時に頑張るとかができる。しかし、原発にはこのような小回りはできない。
原発の始動には1週間くらい、停止には丸1日〜2日掛かる。また、その間は全出力が基本で、状況に応じて出力を絞るというような融通は効かない。できなくはないが、危険なのだ。
2011年5月14日、政府の要請を受けて停止作業中の浜岡原発5号機で大きい事故があった。溶接されていた配管の蓋が外れたものだが、原発の始動と停止には急激な温度変化によるストレスで、こういう事故が起こりやすい。チェルノブイリの事故も、低出力運転の実験中に起こったものだった。
なので原発はいちど動かしたら最大出力で、次の定期点検までの13ヶ月を突っ走らないわけにいかない。
では、その13ヶ月は安泰かというと、そうとも限らない。いちど動き出すと止められないのが原発だが、予期せず止まってしまうのも原発なのだ。
ちょっとした地震でも止まる。複雑なシステムだから、どこかの部品の故障でも止まる。いちど止まると故障箇所を修理しても簡単には動かせない。総点検しないと不安なので、それに3ヶ月は普通で、半年以上掛かることもある。
福島の事故の前でも、原発はしょっちゅう止まっていて、平均の稼働率は70%台というところ。そんなに稼働率の低い設備も世の中には珍しい。これで「安定的に稼働できる電源」とは、ちゃんちゃらおかしい。
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渚にて
福島の原発は津波対策が抜かっていた。しかし地震とともに津波もやってくる日本。そもそも、津波被害を受けやすいはずの海辺になぜ原発があるのか。福島に限らず日本の原発はみんな海岸べりに立地している。これはしかたがない。原発を冷やすのに大量の水が要る。大河の無い日本では必然的に海岸ということになる。原発だけでなく火力発電所も海岸にある。およそ熱機関は、熱だけではダメで、熱いものと冷たいものが出会って、はじめてエネルギが生まれる。
ところが、山がちの日本では、そこは人の住むところでもある。これも道理があって、山と海が出会うところは生命の生まれるところでもあるからだ。豊かな生命が営んでいる海岸沿いに、生命を脅かす原発とが同居している皮肉。
『渚にて』という映画があった。核戦争により汚染された北半球から逃げてきた人類が、オーストラリアで終にはその最後の日を迎える。なんともやりきれない、重い映画だった。
原題「On the Beach」はT.S.エリオットによる詩の一節で、死を迎える人々が集う場所。渚から生まれた生命が、その尽きる日に渚に戻ってくるのは自然かもしれない。
やはり核戦争による人類絶滅を扱う映画で『博士の異常な愛情、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という長い題名のものがある。偶発で起こる核戦争。米ソの首脳は協力してこれを回避しようとするが、「抑止力」のために用意されていた自動報復攻撃システム、全生命絶滅装置が作動してしまう。
核兵器は敵味方の双方とも被害を免れない。兵器としては欠陥品で、「使えない」。使えないが「抑止力」になるとの珍論がある。
この映画は、その「抑止力」の危うさと愚かさをまざまざと見せてくれる。重い内容ながら、キューブリック監督によるブラック・コメディ仕立ては、楽しく見せてくれる。まだご覧でなければ、ぜひ一見をおすすめしたい。
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ノーベルの発明
原発先進国の米国では1979年のスリーマイル島の事故以来、1基の原発も建設されていない。英国やヨーロッパでも衰退の方向だ。原発を欲しがるのは、むしろ原発後進国。電力よりも、それにまつわる核技術が欲しいのだろう。もともと原発は原爆製造機だった。ウランを燃やしてできるプルトニウムが長崎型原爆の原料となる。そのさいの廃熱を利用したものが原発となる。原発を欲しがる後進国の思惑を知りながら、先進国は原発を売り付ける。原発の技術を与える代わり、「核兵器は開発しないこと」という誓約を条件にするのだが、お互いにキツネとタヌキの馬鹿し合いの関係かもしれない。
そんなに欲しがる核兵器も、実を言うと使い物にならない。およそ兵器は敵を殺傷しても、味方に害を及してはならない。ところが核兵器を使って街を破壊したとして、そこに踏み込むことができない。これが細菌兵器だと、特効薬も同時に開発しなければならないはずだ。残念ながら放射能にはその術が無い。
細菌兵器や化学兵器はすでに国際条約で禁止されている。「人道的に」ということもあるが、もともと兵器として実用性に乏しいからだと、私は想像する。
そう考えると、核兵器が禁止されないのは、たいへん不思議なことだ。核は使えないけど「抑止力」とは、奇妙な論理だ。使えないのなら、何の脅しにもならないと、私は思うのだが。
ノーベルはダイナマイトを発明して財を成し、ノーベル賞を設立した。その彼の発明とはどんなものだったか。彼は爆薬の威力を高めたわけではない。爆薬の保存、運搬中に、それが爆発しない工夫をしたのだった。
核兵器を欲しがるなら、除染技術の開発こそ先にやるべきことではないか。原発を動かしたいなら、核のゴミ処理方法の確立が先ではないだろうか。
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プロメテウスの火
ウラン(天王)、プルトニウム(冥王)と同じくギリシャ神話から採られた名前で、プロメシウムという元素がある。自然界には無く、原子炉でのみ生成される。神話の中でプロメテウスは天界の火を盗み、ゼウスの怒りを買った。岩壁に鎖でつながれ、生きながらにしてハゲタカに肝臓を啄まれ続ける(不死身ゆえ)という刑を受ける。
(『縛られたプロメテウス』ルーベンス)
火を得た人間は、それで暖を取るばかりでなく、鉄を鋳て文明を享受した。いっぽう兵器を作り、争うようになった。ゼウスからすれば、それ見たことかというところ。「プロメテウスの火」は、発展した科学文明の功罪を比喩する言葉となった。兵器の発達と戦争は、その最たるものだ。
今また原子力が「プロメテウスの火」と呼ばれる。もっとも、原子力は核兵器の開発に始まるので、「罪」のほうから出発している。「功」のほうはどうだろう。便利であるはずの自動車も殺人機械になり得る。失敗はあるが、正しく使えば原子力も幸福をもたらすはず、という考えもあるかもしれない。しかし原子力は、これまでの科学文明とはまったく違う。
まず、そのエネルギーがあまりに巨大だということ。化学エネルギーに対して、核分裂で得られるエネルギーは百万倍を超える。それが「夢のエネルギー」ともてはやされる理由にもなるのだが、それをちゃんと制御できたら素晴らしいので、じっさいは手に負えていないということを私たちは知っている。
また、その生成物も手に負えない。炭を燃すと二酸化炭素ができる。しかし、それは太陽と水、緑によって酸素と食料とに還元することができる。核分裂で生まれる放射能は、それを元に戻す術がないし、今後もできないだろう。
人類はけっきょくのところ、手を付けてはいけないものに手を付けてしまったのだ。
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戦時下の産物「東京都」
明治の時代、西に大阪市と大阪府、東に東京市と東京府があった。大阪市と大阪府は現在も存在するが、東京市と東京府は統合されて「東京都」となり、現在に至る。東京市の廃止と「東京都」への統合は何時のことかというと、1943年(昭和18年)、戦争中のことになる。
1941年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲から日米開戦。翌1942年4月18日、東京は空襲を受けている。この「ドーリットル空襲」は小規模だったために歴史から見落とされがちだが、当時の日本には大きな衝撃だった。政府は首都の防空都市化の必要を強く感じることとなる。
日米開戦2年後の東京市の廃止には必然性があった。首都の防空都市化には道路の拡幅と、それにともなう立ち退き、木造民家の取り壊しなどを伴う。そこで東京市という自治体がごちゃごちゃ言うとまずい。東京都長官は内務省から派遣された。
(戦時中東京で行われた防火演習・総務省のページより)
戦時体制下で誕生した「東京都」は戦後も引き継がれた。いくつかの変遷を経たものの、東京都と特別区は現在もその特殊性を引きずっている。特別区長会は2006年から都区のあり方検討委員会を設け、特別区制度の見直しを始めている。
橋下維新、また「みんなの党」も「地方分権」を言う。しかし彼らは地方「自治」は掲げない。いわく「明治維新以来変わっていない」日本の「統治機構」を変えるのだとか。
この「統治」という言葉に彼らの本心が見える。「統治」という言葉は現憲法には出てこない。大日本帝国憲法で使われた言葉だ。
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス (第1条)
また橋下氏は「日本の統治機構を変える。それをまず大阪で示したい」という。要はこの人、国政でだめなら大阪で、大阪市、堺市を潰して、目指すものは「大阪ハ唯一人ノ橋下総統之ヲ統治ス」ということなのか。
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