三種の神器と日本書紀

天照大御神さまは、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に三種の神器である八咫の鏡・八坂瓊曲玉・草薙剣を授け、豊葦原水穂国を高天原のようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。
以上は神社本庁のページで天孫降臨神話を語る冒頭部分である。古事記の天孫降臨のエピソードに登場する「三種の神宝」を「三種の神器」と書き換えたもの。

いっぽう日本書紀で同様エピソードは異伝のひとつとして紹介されているにとどまる。書紀本文の相当部分は大意つぎのとおり。
高皇産霊尊は真床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた
タカミムスビが孫のニニギを布団にくるんで地上へ送ったというのだろう。アマテラスも三種の神器も、ここには登場しない。

古事記にのみ登場する三種の神宝が、歴代天皇のレガリア(王権を証明するアイテム)になったかというと、その気配はない。

初代神武天皇が東征し大和でニギハヤヒと衝突するにあたり、両者とも天神族である証拠となったのは弓矢とそのケース(天羽羽矢あめのははや、歩靫かちゆき)である。

日本書紀の中で皇位継承のさいレガリアが登場する初出は允恭紀になる。反正天皇崩御の後、群臣は允恭を推すが、允恭はなかなか受けようとしなかった。このとき登場するレガリアは「天皇之璽」である。持統即位のさいは「神璽劒鏡」と、剣と鏡が追加されている。いずれにせよ勾玉はいっさい登場しない。

なお、崇神紀と垂仁紀によると天照大神は崇神天皇に祟ったので宮中から追い出され、遍歴の末に伊勢の地に倭姫命によって祭られることになったと伝えている。ただここで、天照大神のご神体が鏡であるとは言っていない。

次の景行紀でヤマトタケルが伊勢で倭姫命から草薙剣を授かったが、ヤマトタケルは天皇にはなっていない。その草薙剣を尾張の宮簀媛に預け、後に熱田神宮で祭られたことになっている。この話からすると天照大神ゆかりの品として(言及はないが)鏡のほかに剣も伊勢に移されたようである。勾玉については言及が無い。

のち9世紀に忌部氏の伝承を纏めた『古語拾遺』に景行天皇の世のこととして次の記事がある。
更鑄鏡造劔、以爲護御璽。是、命践祚天之日所、獻神璽鏡劔也。
天照大神を追い出したあとレガリアとして鏡と劔を造ったという。勾玉は言及されず、レガリアを「神璽鏡劔」としている。

このあたりの話を根拠に「鏡と剣を宮中から出し、その形代を宮中に置いた」との俗説があるが、私はそれをおかしいと思う。天照大神が恐れ多いので宮中から出したのならば、そのレプリカを造ったとして、そこに天照大神の霊をコピーしたのでは、追い出した意味が無いではないか。



ちなみに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は神代のほかに垂仁紀に登場する。丹波国の牟士那(むじな)といふ獣の腹から出たものが献上され、石上神社に収めたという。レガリアとはまったく無縁の話となっている。

参考文献:新谷尚紀『伊勢神宮と三種の神器』(2013)講談社


Posted on 8 Mar 2019, 23:28 - カテゴリ: 古代史
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三種の神器と皇位継承

宮内庁のページで剣璽等承継の儀について、次のように解説している。
天皇が皇位を継承された証として剣璽・御璽・国璽を承継される儀式。剣璽とは宝剣と神璽のこと
また「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」として「三種の神器(鏡・剣・璽)」などを挙げている。

「剣璽等」とは、剣が1つとハンコが3つ。三種の神器のひとつとして鏡は追記されているが、ここに勾玉は出て来ない。

いっぽう、神社本庁の皇位継承の儀式を扱った特設ページでは、剣璽等承継の儀を次のように解説している。
皇位につかれた陛下は、「三種の神器」をはじめとした皇室に由緒ある品々や天皇陛下の印である「御璽」、日本国の印である「国璽」を継承されます。三種の神器とは、歴代天皇に皇位のしるしとして継承されてきた八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八坂瓊曲玉のことです。
神社本庁の見解は「神璽」を(かみのしるし)と読み、それを鏡・剣・勾玉のいわゆる三種の神器に当てはめているのだが、それは無理があろう。

南北朝時代に南朝方の北畠親房が『神皇正統記』を記し、「神璽」を勾玉と考えた。古事記の「三種の神宝」に当てはめて解釈したのだろう。これがその後に神社本庁の見解となり、いまも俗説としてまかり通っている。

しかし、「璽」はハンコである。御璽、国璽は明らかにハンコ。なぜ神璽のみハンコでないと言えるのだろう。神聖なものとして普段使われることはないが、やはりハンコであろう。

(図は志賀島で発見された金印

皇位継承のアイテム(レガリア)について正史日本書紀がどう述べているかについては 三種の神器と日本書紀 をお読みいただきたい。



Posted on 21 Feb 2019, 18:07 - カテゴリ: 古代史
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古墳に住み着いたタヌキ

時は日本の高度成長期。イタスケ古墳(堺市北区百舌鳥本町)を宅地に造成しようとする計画があった。

これに対して住民運動が立ち上がり、古墳は国の史跡に指定、堺市が買い上げることで保存されることとなった。造成のため堀に架けられた橋は壊され、半分が残った姿は、この国内初の文化財保護運動の記憶を留め、今に残っている。

いつのころか古墳にタヌキが住み着きいた。臆病な動物で本来夜行性なので、動物園だと奥にすっ込んでいて見ることができない。ここでは敵も居ないので、かっての橋はタヌキのお立ち台となって、地元の人気者となっている。


Posted on 4 Apr 2021, 12:14 - カテゴリ: 郷土史
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ワカタケル

稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土大刀は、銘文に「ワカタケル」と読める文字があるため、中央のヤマトから下賜されたもの、というのが有力な説になっている。(金石文の構造について)

このワカタケルという名前の意味を「若武」あるいは「稚猛」と解釈するなら、タケル2代目、あるいは若旦那、若大将みたいな一般的な呼称となる。

タケルで有名なのは古事記や日本書紀に見えるヤマトタケル(日本武尊あるいは倭建命)がある。その他にも日本書紀には熊襲タケルや出雲タケル、神武天皇が大和で闘った八十タケルなど、タケルはあまた登場する。

タケルは一般名称であるから、以上のようにそれぞれ地名で限定している。ワカタケルの有力候補とされている雄略天皇は古事記で大長谷(おおはつせ)若建命と、やはり地名が付けられているとおりである。

熊本県や埼玉県それぞれの土地のワカタケルが居ても構わないので、当時に大和の王権が九州から関東に及んでいたという想像はできても確証にはならない。


上の画像は堺市博物館の公式キャラクターであるサカイタケルくん。


Posted on 1 May 2019, 22:23 - カテゴリ: 古代史
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2つの御廟山古墳

堺にもあった?応神天皇陵

世界一の巨大古墳で仁徳天皇陵と伝わる大仙古墳(堺市堺区)は百舌鳥古墳群にある。第二位は応神天皇陵と伝わる誉田(こんだ)御廟山古墳(羽曳野市)で、こちらは古市古墳群に属する。

ところが、百舌鳥古墳群の中にも応神天皇陵と伝わる古墳がある。御廟山古墳(堺市北区百舌鳥本町)である。誉田御廟山古墳の直近に応神天皇を祀る誉田八幡宮があるが、百舌鳥の御廟山古墳の直近にも百舌鳥八幡宮がある。墳丘長さで前者は425mで後者は203mと規模は違うが、古市と百舌鳥に同じようなものが2つある。


文久改正(三年)堺大絵図(1863)より
http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010906

江戸時代の地図を見ると、百舌鳥八幡宮の隣に「応神帝廟」が書かれている。別に「仁徳帝陵」なども見える。

「陵」は天皇あるいは皇后の埋葬施設を指すが、「廟」は魂を祀るところだから、それが複数あっても構わないのかもしれない。応神に関し、古市のものと百舌鳥のどちらも「御廟」と呼ばれてきたから、本当のところはどちらにも遺体は埋葬されていないのかもしれない。

白鳥伝説
同じようなことは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)についても言える。ヤマトタケルは死後に白鳥となって飛び立ち、各地を点々としたという。白鳥が立ち寄ったとされる各地に日本武尊墓・白鳥陵が作られた。これらは遺体の無い「空墓」とされる。宮内庁が治定する日本武尊墓は3つ、そのうち1つは古市古墳群にある。羽曳野市の名前はこの白鳥伝説に由来する。

堺市にも白鳥伝説は残っている。大鳥大社(堺市西区)はそのひとつ。

さきの江戸時代の地図に「日本武尊陵」があり、図の位置から永山古墳(堺市堺区東永山園)と見える。これとは別に、今は消滅している長山古墳(堺市堺区東湊町と協和町を跨ぐ)も白鳥陵であったとの言い伝えがある。

関連記事:応神天皇陵は存在しない

Posted on 6 Apr 2021, 13:05 - カテゴリ: 郷土史
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