ワイマール憲法が死んだ日
国会議事堂はすでに焼失していたので、クロル・オペラハウスが議場にあてられたが、 当日この建物の内外には、黒シャツの親衛隊員や褐色のシャツの突撃隊員がたくさんおしかけていた。 そうしたなかでみずからも褐色のシャツを着たヒトラーが、大きな鉤十字旗を背に演説をおこなった。(野田宣雄 「ヒトラーの時代(上)」より)会場内外が騒然とする中、1933年3月23日、立法を含め政府に権力を集中する、いわゆる全権委任法は可決された。当時世界でもっとも進歩的・民主的と言われたワイマール憲法は、この日をもって事実上停止する。
この2ヶ月前、ヒトラーが首班指名を受けた1933年1月、ナチスは第一党ではあったが、過半数は占めていなかった。成立した政府はナチス、人民党、中央党などの保守連合政権。ナチスからはヒトラーを含め3名のみが入閣した。
ヒトラーが総理に就任して最初に行ったことはというと、新内閣の「信任投票」と称し国会を解散することだった。これがワイマール共和制最後の総選挙となった。
投票日の直前、国会議事堂炎上事件が起こる。ナチスの陰謀と言われるが定かではない。ともかくヒトラーはこれを利用し、3,000人以上の共産党員や社会民主党員を拘束するなど大弾圧を行う。
選挙結果はヒトラーにとって意外にも、ナチス単独で過半数を制することはできず、連立与党でようやく過半数。憲法に関わる全権委任法の可決に必要な2/3を得ることはできなかった。
しかしヒトラーは諦めない。81あった共産党の議席を剥奪。社会民主党の議員のうち26人を拘束。中間政党には騙しと脅しを掛ける。最後まで反対した社会民主党94を除き、残る全政党444の賛成で全権委任法可決。
この法律は4年間の時限立法だった。しかしこの後、ヒトラー独裁には半年も掛からなかった。同年6月21日 社会民主党の活動禁止。同年7月3日 中央党が自主解散。他の政党も消え、ドイツの政党はナチスのみとなった。
参考ページ
- クリック20世紀 - ドイツ議会、全権委任法を可決
ヒトラー独裁の完成~全権委任法成立の謎~(第二次世界大戦資料館)
「民主的方法」によるナチス独裁への道のり
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おまけ
「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」
とぼけたことを言う人がいるものだ。ワイマール憲法の息の根が止められたのは決して「静かな」環境の下ではない。騙しと脅迫によって行われたのだ。
自民党改憲案にはすでに「ナチス憲法」が取り入れられている。そのことを指摘した解説記事と、面白いパロディ動画とを紹介しておく。
麻生「ナチス手口学んだら」発言のツッコミどころ(志葉玲)
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