一週間で作られた憲法

憲法は日本の手で「自主的に」作られるはずだった。ポツダム宣言にもとづき1945年10月「自由の指令」を出したGHQは「憲法の自由主義化」も同時に日本政府に指示している。日本政府に憲法草案の作成を任せておくのをマッカーサーが諦めたのは、1946年2月になってのことだった。

2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、他紙でも「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。
2月4日、民政局(GS)内に作業班設置、新憲法案の起草作業開始。
2月13日、GHQ草案(写真)は日本政府に渡された。



その後国会における審議ののち、現行日本国憲法は 1946年11月3日公布される。GHQ民生局による憲法草案作成の着手が遅くなったのは、日本政府による憲法改正の動きを待ったからだが、それは天皇制をいかに守るかに主眼を置き、ポツダム宣言をまともに受け止めたとは言えないものだった。また当時の日本国内世論もそれを許さない空気が出てきたからでもある。

いっぽう成案の期日が急がれたのはなぜか。それは2月26日から極東委員会が活動を始めることになっていたことが鍵になる。

日本と戦争をしていたのは連合国に対してであり、ポツダム宣言はその主要国が会談してまとめられたものだ。しかし日本の占領統治は事実上米国が一国で行っていた。それもまずいので日本の占領政策を審議・勧告する機関として連合国が参加する極東委員会が設けられた。

天皇制について、これを何らかの形で残すことでマッカーサーは日本政府との間で事前了解していた。しかし極東委員会に参加するソ連や中国がこれを認めるはずがない。極東委員会が活動を始めれば天皇の扱いで紛糾することは目に見えている。米国としてはマッカーサーと日本政府との事前了解の線で日本の少なくとも形式的に「自主的な」憲法案が急がれたのだ。そうして出来上がったものが「象徴天皇」というわけだ。

保守派の中に「現行憲法はGHQの手で1週間で作られた」と揶揄する者が居る。GHQ民政局が草案を1週間で作らねばならなかった理由は何であったか。

天皇制を残すために当時の世界情勢と国内情勢の中での妥協点を見出す能力が、そういう保守派の先輩たちには無くてGHQに頼らざるを得なかったということを識るべきだ。そういう「保守派」はいまも米国に頼り切りであることは相変わらずだ。

参考資料
日本国憲法の誕生 (国会図書館)

Posted on 3 May 2013, 0:31 - カテゴリ: 憲法
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