感染症と百舌鳥精進

新型コロナの感染が広まる中、中国で宅配は戸口に荷物を置き、客とは直接対面しないなどの様子が伝えられている。それで思い起こされたことがある。以前に紹介した百舌鳥精進

百舌鳥地域の旧家では正月のおせち料理に肉や魚を入れない(写真)。また家に篭もって外出を避け、訪問客とも喫食を同じにしないなどの風習が伝えられている。これは流行病(はやりやまい)を避ける行動が記憶されたものではなかろうか。


別のニュースでは奈良の春日大社で悪疫退散特別祈願が始められたとか。春日大社は藤原氏の氏神。奈良時代に疱瘡(天然痘)の流行があり、藤原四兄弟が相次いで亡くなるということがあった。彼らの女兄弟に聖武天皇の皇后となった光明子がいる。百舌鳥八幡宮の隣にある光明院はこの光明子が創建したものと伝えられている。また百舌鳥八幡宮の主祭神のひとつに春日大神が連ねられている。

光明院と百舌鳥八幡、百舌鳥精進、これら3つは百舌鳥地域に残された、奈良時代の流行病の記憶・痕跡ではないだろうか。


Posted on 6 Apr 2021, 13:01 - カテゴリ: 郷土史
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古墳に住み着いたタヌキ

時は日本の高度成長期。イタスケ古墳(堺市北区百舌鳥本町)を宅地に造成しようとする計画があった。

これに対して住民運動が立ち上がり、古墳は国の史跡に指定、堺市が買い上げることで保存されることとなった。造成のため堀に架けられた橋は壊され、半分が残った姿は、この国内初の文化財保護運動の記憶を留め、今に残っている。

いつのころか古墳にタヌキが住み着きいた。臆病な動物で本来夜行性なので、動物園だと奥にすっ込んでいて見ることができない。ここでは敵も居ないので、かっての橋はタヌキのお立ち台となって、地元の人気者となっている。


Posted on 4 Apr 2021, 12:14 - カテゴリ: 郷土史
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2つの御廟山古墳

堺にもあった?応神天皇陵

世界一の巨大古墳で仁徳天皇陵と伝わる大仙古墳(堺市堺区)は百舌鳥古墳群にある。第二位は応神天皇陵と伝わる誉田(こんだ)御廟山古墳(羽曳野市)で、こちらは古市古墳群に属する。

ところが、百舌鳥古墳群の中にも応神天皇陵と伝わる古墳がある。御廟山古墳(堺市北区百舌鳥本町)である。誉田御廟山古墳の直近に応神天皇を祀る誉田八幡宮があるが、百舌鳥の御廟山古墳の直近にも百舌鳥八幡宮がある。墳丘長さで前者は425mで後者は203mと規模は違うが、古市と百舌鳥に同じようなものが2つある。


文久改正(三年)堺大絵図(1863)より
http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010906

江戸時代の地図を見ると、百舌鳥八幡宮の隣に「応神帝廟」が書かれている。別に「仁徳帝陵」なども見える。

「陵」は天皇あるいは皇后の埋葬施設を指すが、「廟」は魂を祀るところだから、それが複数あっても構わないのかもしれない。応神に関し、古市のものと百舌鳥のどちらも「御廟」と呼ばれてきたから、本当のところはどちらにも遺体は埋葬されていないのかもしれない。

白鳥伝説
同じようなことは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)についても言える。ヤマトタケルは死後に白鳥となって飛び立ち、各地を点々としたという。白鳥が立ち寄ったとされる各地に日本武尊墓・白鳥陵が作られた。これらは遺体の無い「空墓」とされる。宮内庁が治定する日本武尊墓は3つ、そのうち1つは古市古墳群にある。羽曳野市の名前はこの白鳥伝説に由来する。

堺市にも白鳥伝説は残っている。大鳥大社(堺市西区)はそのひとつ。

さきの江戸時代の地図に「日本武尊陵」があり、図の位置から永山古墳(堺市堺区東永山園)と見える。これとは別に、今は消滅している長山古墳(堺市堺区東湊町と協和町を跨ぐ)も白鳥陵であったとの言い伝えがある。

関連記事:応神天皇陵は存在しない

Posted on 6 Apr 2021, 13:05 - カテゴリ: 郷土史
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村はずれの地蔵

江戸時代、堺旧市街から百舌鳥へは、西高野街道か上神谷街道を通っていた。上神谷(にわだに)街道は堺旧市街から上神谷の妙見さんを経て河内長野市内で天見道に接続する。

東上野芝2丁にあるコンビニと西友の間の交差点は三叉路で、信号から斜めの道は泉北1号線への抜け道として交通量が多い。微妙に曲がっていて見通しが悪いにも関わらずスピードを出す車がいて、事故も起きている。

微妙に曲がっているというのは、昔からある道に違いない。調べてみるとこの道は、上神谷街道の一部であることが分かった。その証拠は歩いてみると分かる。

コンビニ前の信号からから斜めの道を南に歩いてみる。陽だまり保育園の前を通り、百舌鳥川を渡ると泉北1号線が行く手を阻む。左折し東へ少し歩き、信号で1号線を渡る。渡り終えたところ右手に立派な祠が見える。西大道地蔵である。

祠の裏手に石柱が立っている。これは道標で、側面に「右 妙見道」とある。「妙見」は上神谷の妙見さん(堺市南区)のこと。百舌鳥の人々はこの街道を「西大道」と呼んでいたらしく、この道が西の境界となる。この地蔵が百舌鳥の南西境界を守っていたのだろう。

上神谷街道は大仙公園内にも残っている。公園内の池の西、T字路に祠があって「身代わり地蔵」とある。その横に、西大道地蔵で見たのと同じ道標がある。こちらの地蔵も百舌鳥の境界を守っているのだろう。

ここから百舌鳥の集落へ向かう道があった。
今は公園内で消えているが、祠の北辺を起点に池の南岸をなぞり、阪和線の小さな踏切に至る。踏切を渡ってまっすぐに進むと、西百舌鳥小学校へ、あるいは途中からの分かれ道は百舌鳥八幡宮へと続く道となる。


Posted on 6 Apr 2021, 13:07 - カテゴリ: 郷土史
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百舌鳥精進

[code][/code]地元のモズ日本共産党後援会ニュースやFacebookに連載した記事。せっかくなので、ここにまとめて置いておく。

第1弾は百舌鳥精進(もずしょうじん)

百舌鳥(堺市北区)の旧家では、おせち料理に肉や魚を入れない。いわゆる「百舌鳥精進」。このような風習は他所ではあまり見ない。その謂れを調べると、3つ見つかった。

1) あるとき疫病が流行り、八幡さまがそれを救ってくださった。
2)むかし井戸を掘っても赤い水しか出なかった。弘法大師が清くしてくださった。
3)御廟山は立ち入り禁止だったものを、ある男が薪を採ろうとして堀を渡ったので、山の主である八幡大神がお怒りになった。

これらのうちいずれが本当か詮索するのは野暮で、いずれも古くから伝えられて来たものだろう。いずれの言い伝えも平安あるいは奈良時代ごろに遡りそうだ。

百舌鳥精進には正月三ヵ日生臭ものを食べないばかりでなく、家に篭もって外出を避けるとか、訪問客とも喫食を同じにしないなどの風習が伝えられているところは、1の疫病の話がもっともらしい。外来者が疫病などの災いをもたらすことは、どこでも昔から恐れられている。百舌鳥では村の西境界2箇所で地蔵が祀られている

2の「井戸の水が赤かった」とは、百舌鳥赤畑町の地名由来として魅力的だ。弘法大師が水を清めたという話は各地で伝えられている。

1、2ともに助けてくれたのは八幡さまであったり弘法大師であったりする。明治に神仏分離されたが、昔は神仏習合、奈良時代には「八幡大菩薩」を自称していたくらいだから、神か仏かどちらでも良かったのだろう。

3は1、2と比べ、少し毛色が違う。これは御廟山が応神天皇陵だとの伝承と、応神天皇は八幡大神でもあるということから来ている。ほかの古墳と違って御廟山は大きな楠が生い茂る森となっており、この山の禁秘が古くから守られていたことを窺がわせる。宮内庁は古市にある誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳を応神陵としているが、百舌鳥の御廟山古墳も陵墓参考地としている。

1)2)折口信夫 三郷巷談 大正2年
3)柿澤和代 堺おもしろ話 其の1 堺観光ボランティア協会 2015

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Posted on 6 Apr 2021, 13:08 - カテゴリ: 郷土史
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