グイド・カニャッチ
『昇天する聖マグダラのマリア』
Guido Cagnacci, Santa Maria Maddalena portata in cielo dagli angeli (1650-1658) Galleria Palatina, Firenze
天使たちに持ち上げられ天に昇る聖女。 魂が天に昇るのは普通(?)だが、彼女の場合は天使たちにより肉体ごと上げられている。 このような扱いを受けるのはキリスト教では主イエス・キリストと聖母マリア、 そして聖女マグダラのマリアだけである。
キリスト教の聖人にはその遺骸を祭る墓があるのが普通だが、 イエスと聖母マリアの2人には真贋交えて聖遺物はあるが、遺骸というものが無い。 どちらも死後に肉体ごと天に昇ってしまったからである。 イエスは復活後、また昇天した。聖母マリアは「上げられた」ので、「被昇天」と言う。
しかし、聖女マグダラのマリアの遺骸を祭る墓は存在する。 少なくともフランス、ベズレイの聖マドレーヌ聖堂はそれを主張している。 なぜ遺骸があるかというと、彼女が天国へ行ったのは一時的なことで、 また地上へ戻ってきたからである。 伝説によれば晩年の隠修生活中にしばしば天国に昇り、天使の歌声を聞いていたという。 残念ながら天にましますのは神と(聖霊と?)キリスト、聖母マリアだけで、 聖女マグダラのマリアは地上で最後の審判を待っているらしい。
汚名か名誉か
マグダラのマリアは永く「悔悛した罪の女」とされてきた。 カトリック教会では591年グレゴリウス1世ローマ教皇によってそれが教義化され、それは 1969年の第2回バチカン会議で見直されるまで続いた。 しかし、それが逆に彼女に魅力を与え続けてきたという一面もある。
神が人の間に遣わしたイエス・キリストは「罪を犯したことがなく」(1ペトロ2:22)、その誕生も尋常ではなかった。 その母マリアも、イエスの祖母にあたるアンナの胎に宿ったときから原罪を免れていた。 イエス・キリストや聖母マリアは敬う対象ではあっても、我々とは生まれながらにして異なる世界の存在である。
これに対して、我々と同じように罪を背負っていたマグダラのマリアが、イエスを深く愛し、受け入れられ、 イエス・キリストの復活の証人となった。 このことは我々凡人に親しみと希望を感じさせる。 私たちは「皆、罪の下にあるのです」(ロマ書3:9)。 彼女も罪を、それも「七つの」という最大級の罪を背負っていたとしたほうが、 ドラマティックではないか。
娼婦だったのか
彼女についての福音書の記述は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」、 「マグダレネと呼ばれるマリア」、そのほか多くの婦人たちと一緒に「自分の持ち物を出し合って」、「一行に奉仕していた」、「ガリラヤから付き従ってきた」(ルカ8:1-3, 23:55)としか紹介されていない。 彼女の出自についてそれ以上のことは、いずれにせよ後世の想像にすぎない。
かってのカトリック教会の教義によれば、彼女はルカ(7:36-50)に登場する「罪深い女」と同一人物であった。 この女性がどんな罪を犯していたのかは記載されていないが、性的不品行と理解されてきた。 それが娼婦と理解されていたかもしれない。 この女性が使った香油は非常に高価であったので、彼女は高級娼婦だったろうと想像する人もいる。 マグダラのマリアは(悔悛した)娼婦の守護聖人でもある。 13世紀以降のヨーロッパに娼婦の更生施設として聖女の名を冠する修道院がいくつか設立された。 20世紀後半に公開されたキリスト伝を扱う米国映画の多くが娼婦を生業とするマグダラのマリアを登場させている。
それでも欧米の親たちは自分の娘に、彼女にあやかってその名を付けて来た。 それを考えると、 聖女が職業的な娼婦であったと、広く信じられていたとは思えない。
13世紀に纏められたウァラギネの『黄金伝説』はマグダラのマリアを、ベタニアに住む王家の出自であって、親からマグダラの地を譲り受け、 その富と美貌を持て余し、欲望に溺れていたが、イエスと出会って悔悛した女性としている。 富と美貌を欲しいままにし、身持の良くない女性だったと捉えられていたかもしれない。 ルネサンス期に好んで描かれた聖女の姿は、おおむねこのイメージに沿っている。 ともかく画家たちは、この上なく美しい聖女を描こうとしてきた。
男嫌いのダイアナに対し、ヴィーナスは娼婦と呼ばれることもある。 「娼婦」と呼ばれるのも、また名誉ではないか。
イエスと結婚していた?
1982年に英国で刊行されたノンフィクション Holy Blood, Holy Gail (邦題『レンヌ=ル=シャトーの謎』で著者らは、 イエスとマグダラのマリアが結婚しており、子供を設けたという仮説を示した。 1988年に公開された映画『最後の誘惑』でイエスがそれを夢想する(原作は1951年)。 最近では『ダ・ヴィンチ・コード』がそれをストーリー中に使っている。
これも想像の世界でしかない。 そうであったとも、なかったとも証明はできないだろう。 興味のあるのは、そういうことが過去に信じられてきたかどうかである。 結婚していたとする人たちの論は、そのことは伏せられてきて、あちこちに暗喩や象徴の形で埋め込まれていると主張する。 暗喩ではなんとも言えない。 唯一明示的なものは、2-3世紀ごろの著作と見られる『フィリポによる福音書』の記述である。 この書はナグ・ハマディ写本の中に含まれていて、グノーシス主義的範疇のものと見られるが、ちと正体不明のものである。
そういうことで、昔のことはよく分からないが、現在ではどうであろう。 第2バチカン公会議を受けて1969年にカトリック教会がマグダラのマリアを「罪深い女」から区別するなど、その地位の見直しが始まった。 20世紀の半ばには、ナグ・ハマディ写本の発見など、異端の書としてこれまで所在の分からなかった書物が、その姿を現してきた。 娼婦からイエスの妻への格上げは、これらが契機になっていることは間違いない。
娼婦でなければ妻。「彼女に性的な役割しか与えない、同じ見方の裏と表」と、 『ナグ・ハマディ写本 ─初期キリスト教の正統と異端 』を著わしたエレーヌ・ペイゲルスは指摘する。 マグダラのマリアをはじめとする女性たちはイエス一行に、ただ「付き従い」世話をするなどで「奉仕していた」(ルカ8:3)ばかりではなく、 男性たちと並ぶ、れっきとしたイエスの弟子であった。 それを認めることが、彼女たちの正しい名誉回復ではなかろうか。