Pietro Lorenzetti - Madonna in sunset

アッシジの聖フランチェスコ教会 (参考ページ:プリオシン海岸による 聖フランチェスコ大聖堂など) に『夕日の聖母』と呼ばれる絵がある(左はその部分)。 聖母子の右隣は聖書を手にする福音記者ヨハネ、 左にはトレードマークである腰紐姿の聖フランチェスコが描かれている。 聖フランチェスコは13世紀ごろのイタリアの聖人で、イエスとは生きた時間も空間も異なる。 ヨハネもイエスが成人してからの弟子だから、 これらの人物がこのように会するはずはない。 聖母子像に他の聖人が組み合わされることはよくある。 比較的正直(?)なものでは聖母子像と他の聖人は別枠にして並べるが、 このように同じ画面の中に描かれることもある。

この絵でイエスは、ヨハネとフランチェスコとどちらを先に祝福すべきかを聖母マリアに尋ね、 聖母が「フランチェスコを先に」と、親指で指し示しているところだという。 信徒たちが自ら信奉する聖者を権威づけようとする、よくある手前味噌に見える。 興味あるところは、聖フランチェスコの対抗馬に福音記者ヨハネが選ばれている点。 この絵の制作者(注文者あるいは画家)は、イエスの後継をヨハネによる福音書に出てくる 「イエスの愛された弟子」であり、福音記者ヨハネ自身であるとの解釈を行っていることを示している (イエスの後継者は誰か)。

もうひとつ面白いと思えることがある。 幼いとはいえ神の子であるイエスが、 事実上の後継指名という重大な事柄に、 母親の判断を仰いでいるというところ。 イタリア人の感覚ではさしもの神の子も母親には頭が上がらないのか。 英語で「Oh, my God!」=「ああ、神様!」と叫ぶ場面で、イタリア人は 「マンマ・ミーア!」。「お母ちゃ〜ん」か、あるいは聖母マリアを指すのかもしれない。 「マドンナ!」と聖母マリアを呼ぶこともあるそうだ。 そういうところ、イタリア人はみんなマザー・コンプレックスなのかと言われたりする理由である。

そのマザコン気質が聖母マリア信仰を産み、育てたのではないかとも思える。 キリスト教の初期にはイエスの母マリアに関心は払われていなかった。 最初に書かれた福音書とされるマルコによるものがイエスの母親について触れるのは、 宣教の旅のイエスを訪ねるが追い返されてしまう(マルコ3:31-35)、 場面と、 イエスが産まれ故郷ナザレで土地の人たちから 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、兄弟は…(マルコ6:3) と、疎んじられるところぐらいである。 聖ペトロとともに初期のキリスト教会を牽引した聖パウロによれば、 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです(ローマ1:3-4) と、当時から存在していたであろう誕生譚を意識しながらも、 ダビデ王の血を引く父方の血統を優先している(イエスはなぜ馬小屋で産まれたか)。 しかしながら聖パウロにとって肉のイエスの誕生への関心よりも、その死と復活にこそ大きな意義を認めていると言えよう。

聖母崇拝は5世紀になって教会も積極的に進めるようになる。 431年エフェソス公会議で「神の母」の称号を得、553年コンスタンティノープル公会議では 処女懐胎も含め聖母マリア終生の処女性が確認される(公会議一覧)。 その至潔性は イエスの祖母にまでさかのぼり、聖アンナが無原罪で聖母マリアを懐胎したとする説を、 1854年には教義化するまでにエスカレートする。 教皇ピウス9世がこの回勅を出した12月8日を、カトリックでは「無原罪の御宿りの祝日」とする。 (参考:山城順『マリア』 第5章など)

カトリック教会による聖母の処女性の強調は、 それを補完するものとして聖女マグダラ信仰を延命させたとも言えよう。 英語で the Virgin と大文字の処女は聖母マリアを表し、 the Sinner 罪びと、あるいは「罪の女」が聖女マグダラを意味するとは、えらく対称的である。 生まれながらにして我々と違う世界の聖処女マリアよりも、 「悔悛した罪の女」に人は親しみと希望を感じるもしれない。 聖フランチェスコ教会には聖マグダラのマリア礼拝堂があり、 『聖女マグダラの一生』が描かれている。

19 Mar 2006 (初出:30 Jan 2006)