カトリック世界最大の寺院サン・ピエトロ寺院の大礼拝堂に入って右手にその像がある。 十字架から降ろされた死せるイエスを抱き悲しむのは、その母マリアなのか。 その静かな悲しみをたたえ、静謐ながら荘厳。ミケランジェロ若き日の傑作である。 あまりの美しさに気がふれたか、不届き者がよじの登り、マリアの指などが折られたという。 現在は修復されているが、そのおかげでガラスケースに納められている。 その代わりと言っては何だが、隣接するバチカン美術館にレプリカがある。
美しい。実に美しい。そして若い。 イエスが推定33才、その母が推定48才(J.ウォラギネ「黄金伝説」)にしては若過ぎるというのが、 この女性が聖母マリアではなく、マグダラのマリアではないかと考えられる一つの根拠となっている(弓削 達)。 しかしながら、聖像を歴史的事実の描写ではなく信仰の対象として捉えるならば、 そういう詮索はあまり意味がない。 永遠の処女たる聖母マリアが齢を加えないとしても、それに不思議はない。 『ピエタ』の図像は数多く描かれているが、登場する聖母は年老いた姿で描かれているもの、 若い顔立ちで描かれているものなど様々である。 注文者である当時の教皇もこの像を聖母マリアが死せるイエスを抱く像として受け入れたであろう。
問題は作者が彼女を聖母マリアとして描いたのか、マグダラのマリアを意識していたのかである。 髪を完全に隠していること、表情が静かであることから聖母マリアを描写する規則に習ったものであると私は思った。 しかしながら、不審なところが一つある。 それは右下隅にマリアの衣の裾に足先が、ほんの少し覗いていることである。 (右の写真にはイエスの左右の足先。それらの下、衣の下にマリアの足指の先だけが覗く。)
衣の裾に素足が覗くのはマグダラのマリアだけに許された表現であった。 ルネサンス期には、聖母子像で同様の表現を使う場合が出てくるので、 決定的なことは言えない。 しかし、ここで僅かに覗くマリアの足先は、 作者が込めたギリギリのメッセージかもしれない。 死せるイエスを抱くのは聖母マリアかもしれないし、 マグダラのマリアであるかもしれないと。