熊野街道のルート(2)
(熊野街道の堺市内ルートの続き)伝履中天皇陵の西側を通るルート… 私はこれに与できない。仁徳陵と履中陵の間はかつて低湿地。ここに土を盛り、造成したのが現在の大仙公園となる。現在の日本庭園の西を走る道路はその時に作られたもので、 造園前の地図にこれはない。
代わりに公園内に旧道が残っている。南下して公園を出ると自動車道となる。かつて路線バスも走っていたこの道路は上神谷(にわだに)街道として知られている。道路は周囲の土地とは一段高くなっている。これは人工的に積み上げられたとしても、西側の段差を見るともともとそういう地形だったのかもしれない。この道を辿ると履中陵の東側に出る。
このことに気づいた研究者もいるが[3]、このまま進むと JR阪和線の踏切を超えたところで急な下り坂となり、現在の泉北1号線、百済(くだら)川にぶつかる。これは困った。
図2. 伝仁徳陵から神石市之町まで(赤い太線が私の提案)
百済川を渡ったとしても、その先大鳥大社までに石津川も渡らなければならない。踏切を渡らず阪和線沿いに歩いても川を2度渡るのは同じ。それは嫌なので百済川と石津川の合流点より下流ならば渡河は一度で済む。合流地点の左岸に神石市之町(堺市西区)がある。市が立つのは主要街道と川の交差点近くが多い。人流、物流に合った立地だろう。立派な橋が架かっていなかった時代だと、もともと人が溜まる場所だ。
そこで上神谷街道を辿って、JR 阪和線の踏切は渡らずに神石市之町を目指す。それを図中赤線で示した。
JR阪和線は昭和初期の開通で、上野芝駅を作り周辺に住宅地を開発した。そのために昔の道の痕跡は失っているが、地形を考慮すれば概ね見つかる。
[3]松原右樹「をぐり街道の風景」(「まぼろしのをぐり街道」1996 に所収)
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熊野街道の堺市内ルート
熊野詣への道。泉州地方では「小栗街道」とも呼ばれる。和泉市から南のエリアではそれがよく残っていて道標を見ることも多い。ところが、堺市内でそのルートは混乱している。 堺市のホームページが紹介する熊野街道は、堺旧市街中央を走る大道筋を南下し、南宗寺の西で旧市街を出て石津神社に向かう。
いっぽう大阪府のホームページが紹介するルートは、伝仁徳天皇陵の西側を南下。南西隅に到達するとそこから御陵通りを西にとって、旧市街南端でさきの道に合流する。
図1熊野街道(境王子から大鳥王子まで)
次の目的地である大鳥大社に向かうのに、御陵通りを西にとるのはどうも不自然だ。これは堺旧市街に立ち寄りたいと取れるが、堺が栄えたのは 室町時代。 熊野詣は平安時代末期から 盛んになるが、その時代だと堺旧市街辺りは海岸線近くの辺鄙な漁村に過ぎない。熊野詣の長い歴史の中でルートは変化しただろう。堺市内でのルートの混乱はこれが理由ではないか。
この疑問を抱いた人は少なくない。 熊野詣の初期は海岸線近くではなく、もっと山側を通っただろう。 研究者の一致しているところは仁徳陵の南西隅まで。その先についていくつかの提案の多くが伝履中天皇陵の西側を通る[1][2]。
しかし私はこれに与できない。…(熊野街道のルート(2)に続く)
[1]和田俊夫「熊野街道と堺市周辺 歴史とその推理」
[2]ふぐD 「御陵通の違和感(熊野街道ルート考)」(ネット上のブログ)
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大鳥街道
堺市を通る主な街道は旧堺市街を中心に放射状に伸びている。その中で「ときはま線」は旧市街を通らずに、いわば近郊を環状というかJの字に走っている。この道は府道28号線(大阪高石線)のバイパス道として新しくできたもの。旧道は百舌鳥八幡宮、極楽寺、家原寺、大鳥大社、浜寺公園を結ぶ。この一部区間が「浜寺街道」あるいは「大鳥街道」と呼ばれた記録があるが、私はこの路線全体を「大鳥街道」と呼びたい。
丸番号付きの細線が府道28号線(大阪高石線)の旧道。弧状の太線がバイパス道(ときはま線)。
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身代わり地蔵
4月3日、もず後援会の主催で「さくらウォーク」を開催しました。この日のテーマは桜を愛でながら、上神谷(にわだに)街道を歩くことでした。上神谷街道は堺旧市内から南区の桜井神社を経て河内長野に至る街道です。大仙公園を造成するにあたり、この街道の存在が指摘され保存されることになりました。
この街道は百舌鳥村の西の境界となっており、百舌鳥の人々は西大道と呼んでいました。街道沿いに身代わり地蔵があります。災いを代わりに背負ってくれるそうです。
ここから百舌鳥村の中心部に向かう街道がありました。大仙公園内のその道は消えていますが、地蔵の近くにその痕跡を確認できます。
昔から最も恐れられていたのは疫病であり、それは外からやってくるものでした。村への入り口で疫病や災いを 防ぐ存在として、この地蔵が作られたのでしょう。
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熊野(ゆや)小学校
堺市堺区に熊野(くまの)町という所がある。地域の小学校は熊野(ゆや)小学校と、漢字は同じだが「ゆや」と読ませている。熊野という漢字には「くまの」と「ゆや」という2とおりの読み方があるらしい。江戸時代の地図によるとこの町は「湯屋町」と表記されている。明治になって同じ「ゆや」と読める「熊野」という漢字に変ええられたのだという。湯屋町という名は、この辺りに風呂屋が集中していたからだと、堺市のHPで紹介されている。
しかしこの話、おかしくないか? 風呂からの帰りに湯冷めしてはたまらないので、風呂屋は各町内に分散してあったはず。それが宿屋町や旅籠町に隣接していたのなら分かるが、そうでもない。
私は「湯屋」というのは、鋳物工場だったのではと思っている。溶かした金属のことを「湯」と呼んだのではないか。
熊野(ゆや)小学校の運動場が発掘調査され、中世の壕の跡が確認されている。そこから鋳型が見つかっている(毎日新聞)。私の仮説もあながち妄想とは言えないだろう。
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