ここでエル・グレコ工房による『磔刑図』のひとつを見てみよう。 十字架上のイエスを鋏み、左に聖母マリア、右の人物の性別が分かりにくいが福音記者ヨハネで、 われらのマグダラのマリアは例によってイエスの足もとで十字架の基を抱いている。 (これの元ネタらしき絵は フィレンツェの画家 Nardo di Cione によるものなどがある。)
ヨハネによる福音書にある、聖母と「愛する弟子」とを親子としてイエスが引き合わせる場面を表したものであることは明白である。
イエスの十字架のそばには、母とその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て。 母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 (ヨハネ19:25-27)
エル・グレコによるこの絵はヨハネによる上記文章に忠実であるように見える。 しかし詳細に見れば登場人物の一部が、 親子の対面には関係がないとされたのであろうか、省略されていることが分かる。 しかしマグダラのマリアだけは重要人物と見えて、無視しえなかったようである。
マグダラのマリアがここに居る根拠となる引用第1行は十字架のそばには女性たちしか居なかったようにも読める。
男の弟子がこの場に居たならばイエスの仲間として捕えられる危険があったかもしれない。
じっさい同じヨハネによる福音書によれば翌々日イエス復活の日にも
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた
(ヨハネ20:19)。
そう考えると上記引用第2行目で「愛する弟子」の登場は唐突な感がある。 この矛盾を解消する方法がある。 そう、「愛する弟子」は男性ではなく、女性であると考えればこの文章は自然に読める。 そしてその候補者として適切なのはマグダラのマリアに相違ない。
この大胆な仮説に難点がないではない。 日本語訳では分かりにくいが、福音書が書かれたギリシャ語では男性を表す語と女性を表す語は異なるし、 マグダラのマリアが墓の異常をぺトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」に伝えたくだり(ヨハネ20:2-10)などに無理が生じる。