28 Jul 1999
「建築は芸術か?」という、
ネット掲示板ART MURMUR
の記事に触発され、
日ごろ考えていたことを纏めてみました。
ART MURMUR では「建築は芸術か?」という問いのほかに「料理も芸術になり得ないのか?」という問いもありました。 これらは「芸術」の定義に出来栄えの問題を持ち込もうとするものです。 「終に『芸術』の域に達した」という語法です。 この語法ならば、なんだって「芸術」になり得て、料理も寿司職人の手先も、スリの業だって「芸術」になったりする。
英語で fine art と applied art の区別のほかに high art/culture と low art/culture の別があり、 欧米でも芸術をレベルで分別する思想もあることが分かります。 しかしこれは実用的なもの、大量生産のものの価値を低く、実用的でないもの、大量生産できないものに高い価値を認めるということであって、個々の出来栄えによって fine art あるいは high art に入れるかどうかを決定するというわけではありません。
大量生産については理解できても、実用的なものの価値を低く、 実用的でないものに高い価値を認めるということはわれわれには抵抗感があるかもしれません。 この価値観は18世紀のヨーロッパにあった特殊な価値観であるかもしれない。 またこのこととキリスト教文化の関係を考察することも興味のあるところです。 それはさておき、実用性と大量生産に対する価値観は欧米の fine art を理解し、その訳語たる「美術」、「芸術」を考察するうえで大事なキーワードとなります。
「芸術にあらかじめ枠を与えないほうがよい」とかいう議論はあります。 美術とは絵画であり彫刻である。絵画とはキャンパスに油彩したものである。 ・・・などという枠を乗り越えて表現手段を獲得してきたのが美術の歴史です。 では何でもありかというと、それでは分けがわからなくなる。 それではっきり認識すべきが非実用、非大量生産という枠です。
デュシャンの『泉』というのがありますよね。 便器を展覧会に出そうとしてスキャンダルを起こしたもの。 しかしよく見てみるとデュシャンは便器を倒して置いており、便器として使えない。 もともと大量生産のものをサインを施すことで一品ものを装っている。 すなわち、デュシャンも非実用、非大量生産という枠は守っている。
非実用に高い価値を認めることが18世紀ヨーロッパに固有のものであるかもしれないと述べました。大量生産に対する態度も実は同じ根を持つものです。 思想は当然揺れ動くものですが、欧米の価値観がそうそう簡単に変わるとも考えないほうがよい。 このことを認識しておくことは欧米人と語るさいに必要なだけでなく日本で「美術」、「芸術」を語るうえで大事となります。それは日本におけるこれら「美術」、「芸術」の出生と拘わっています。
日本語の「美術」あるいは「芸術」は欧米語の fine art の訳語です。なぜ明治になってこれらの訳語が必要になったかといえば、明治政府が欧米列国と「付き合う」ために必要だったわけです。同様に美術館・博物館、芸術大学なども鹿鳴館と同じ線上で作られました。 では現在その必要はあるのかないのか、日本の芸術家が欧米で認められることの現代的意義は?などが議論されるべきことだと思います。
”Richard Mutt”と名乗る男が 1917年、『ニューヨーク・アンデパンダン芸術家協会』主催の展覧会に小便器を彫刻作品として出品しようとした。(デュシャンはこの協会の設立メンバー)この展覧会は6ドルの出品料さえ払えば誰でもどんな作品も受け入れるというものであった。”Mutt”氏は出品料を払ったにもかかわらず、この品は問答無用で拒絶された。 デュシャンは雑誌『The Blind Man』でこの品を擁護する記事を書いた。(デュシャンはこの雑誌の編集者) 「Mutt氏が自らの手でこの『泉』を作ったかどうかは問題ではない。彼は選んだのである。 彼はありふれた日用品のひとつを取り上げてその実用的意義を失わせるような仕方でそれを置き、それに表題を与えた。 創作ということでいえば、そのことでこの品に対する(我々の)新たな想起を与えたのである。」・・・以下略経緯を見てると、これはデュシャンの自作自演の狂言らしい(笑)。 また”Mutt”は「馬鹿者」という意味。これもデュシャン特有の皮肉のようです。