3点セット

日本国中の原発が停止して2度目の正月を(もうすぐ)迎える。

2012年6月、大飯原発再稼働について「実際に停電になれば自家発電機のない病院などで人命リスクが生じるのが大阪の現状だ。再稼働で関西は助かった。おおい町の人たちに感謝しなければならない」と、人命の問題としたのは橋下氏であり、当時の野田総理だった。

その後2013年9月、じっさいにすべての原発が止まった。以来、夏の電力ピーク時にも、冬にも停電は起こっていない。福島原発事故以前、原発は日本の電気の約30%をまかなっていた。それがゼロとなったいま、なぜ電気は足りているのか?

もちろん省電力の努力は大きい。しかし、もともと発電設備は過剰だった。過去から現在まで原子力を除いた発電能力を最大電力が超えたことはない。


(藤田祐幸博士が作成したグラフ)
原発の建設は1970年台後半からだが、同じ時期に水力も火力も増えている。なぜだろう?

電力需要ピークの昼間に動かし、減少する夜間には止めるという小回りは原発にはできない。 そこで余った深夜電力を貯めておく揚水発電が必要となる。

また、原発はちょっとしたトラブルで停止して、その復旧に長期を要することがある。それでは安定供給責任の問題になるので、バックアップとして火力発電所も必要となる。

すなわち原発を1基作ると、水力と火力も同時に建設しなくてはならない。かくして原発を作れば作るほど、発電能力は過剰になる。

原発再稼働について、せっかくある設備なのだから動かしたいという経済的理由が持ち出されるかもしれない。しかし経済的に言って最大のムダは原発を作ったことにあり、いま廃炉ではなく維持し、再稼働の準備をすることがムダではないだろうか。

Posted on 28 Jun 2015, 11:32 - カテゴリ: 原発
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落ちたエレベーター

東京メトロ平和台駅でエレベータを吊るワイヤーロープが切れて落下する事故があった(2011年7月28日) 。 幸いに非常ブレーキで止まったが、サスペンス映画にありそうな、恐ろしい話である。

こういう事故はあってはならないので、普通どういう設計をするかというと、 ロープに掛かる最大荷重を計算したうえで、その3倍程度の強度のロープを、さらに2本以上使う。 (報告によれば当該エレベータのロープは3本、合計の安全率は8.2倍だった)

なぜそういうことをするかというと、計算上の強度と実際のロープでは材質や出来栄えで違いがあるかもしれない。 また使用中にサビもすれば劣化もする。もちろん定期点検などで保守するとしても、抜けがあるかもしれない。

もし1本が切れたらさすがにそれは分かるので、そのときに交換すればよい。 2本切れたとしても、最後の1本で充分に支えきれるはず。

それでも事故は起こる。このとき3本すべてが同時に切れた。乗客は1人だった。腰を打ち付けただけの軽傷で済んだらしい。

(これとは別に、エレベータが底まで落ちて重傷を負った例もある。図をクリックするとリンク先に飛びます。)


「安全余裕」という原発業界が発明した用語があるが、一般の機械設計や建築業界では設計上の強度を最大負荷の何倍にとるかを「安全率」と呼ぶ。

エレベーターの例をここで出したが、橋梁など重要な構造物で安全率は普通4〜10倍に採られる。でも、まともな設計者は、それで「余裕」があるとは決して思わない。

「世界一厳しい安全基準」というものが本当かどうかは別に置いても、そのような基準にしたがったからといって、事故の可能性がなくなるわけではない。

エレベーターの事故ならば、その被害は箱の中に限られる。しかし原子力発電所でひとたび重大事故が発生すると、どんなことになるか。私たちは福島の例で、それを知っているはずだ。被害の範囲はあまりに広く、また時間とともに収束するどころか、放射能汚染はむしろ拡大している。

関連記事、参考リンク:
大飯原発の耐震性は余裕なのか
大飯原発運転差止請求事件判決要旨(NPJへのリンク)

Posted on 16 Jul 2014, 16:30 - カテゴリ: 原発
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ベースロード電源

「発電コストが低廉で、昼夜を問わず安定的に稼働できる電源」だそうだ。明らかにお天気任せの太陽光と風力発電とわざわざ対比する、使い古されたおとぎ話。

太陽光とか風力発電はマイナーなもので、いまの日本で発電の主力は石炭火力だから、まずこれと比較すべきだろう。石炭火力もベースロード電源に挙げられているが、原発とは大きく違う。

石炭火力の場合、ベースロードを担うとともに、需要の大きな季節にのみ稼働したり、真夏の昼間など需要のピーク時に頑張るとかができる。しかし、原発にはこのような小回りはできない。

原発の始動には1週間くらい、停止には丸1日〜2日掛かる。また、その間は全出力が基本で、状況に応じて出力を絞るというような融通は効かない。できなくはないが、危険なのだ。

2011年5月14日、政府の要請を受けて停止作業中の浜岡原発5号機で大きい事故があった。溶接されていた配管の蓋が外れたものだが、原発の始動と停止には急激な温度変化によるストレスで、こういう事故が起こりやすい。チェルノブイリの事故も、低出力運転の実験中に起こったものだった。

なので原発はいちど動かしたら最大出力で、次の定期点検までの13ヶ月を突っ走らないわけにいかない。

では、その13ヶ月は安泰かというと、そうとも限らない。いちど動き出すと止められないのが原発だが、予期せず止まってしまうのも原発なのだ。

ちょっとした地震でも止まる。複雑なシステムだから、どこかの部品の故障でも止まる。いちど止まると故障箇所を修理しても簡単には動かせない。総点検しないと不安なので、それに3ヶ月は普通で、半年以上掛かることもある。

福島の事故の前でも、原発はしょっちゅう止まっていて、平均の稼働率は70%台というところ。そんなに稼働率の低い設備も世の中には珍しい。これで「安定的に稼働できる電源」とは、ちゃんちゃらおかしい。

関連記事:
フクシマを契機に日本の原発はどれほど安全になったか
自然エネルギーは原発の代替足り得るか?

Posted on 7 Mar 2014, 20:00 - カテゴリ: 原発
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渚にて

福島の原発は津波対策が抜かっていた。しかし地震とともに津波もやってくる日本。そもそも、津波被害を受けやすいはずの海辺になぜ原発があるのか。

福島に限らず日本の原発はみんな海岸べりに立地している。これはしかたがない。原発を冷やすのに大量の水が要る。大河の無い日本では必然的に海岸ということになる。原発だけでなく火力発電所も海岸にある。およそ熱機関は、熱だけではダメで、熱いものと冷たいものが出会って、はじめてエネルギが生まれる。

ところが、山がちの日本では、そこは人の住むところでもある。これも道理があって、山と海が出会うところは生命の生まれるところでもあるからだ。豊かな生命が営んでいる海岸沿いに、生命を脅かす原発とが同居している皮肉。

『渚にて』という映画があった。核戦争により汚染された北半球から逃げてきた人類が、オーストラリアで終にはその最後の日を迎える。なんともやりきれない、重い映画だった。

原題「On the Beach」はT.S.エリオットによる詩の一節で、死を迎える人々が集う場所。渚から生まれた生命が、その尽きる日に渚に戻ってくるのは自然かもしれない。

やはり核戦争による人類絶滅を扱う映画で『博士の異常な愛情、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という長い題名のものがある。偶発で起こる核戦争。米ソの首脳は協力してこれを回避しようとするが、「抑止力」のために用意されていた自動報復攻撃システム、全生命絶滅装置が作動してしまう。



核兵器は敵味方の双方とも被害を免れない。兵器としては欠陥品で、「使えない」。使えないが「抑止力」になるとの珍論がある。

この映画は、その「抑止力」の危うさと愚かさをまざまざと見せてくれる。重い内容ながら、キューブリック監督によるブラック・コメディ仕立ては、楽しく見せてくれる。まだご覧でなければ、ぜひ一見をおすすめしたい。

Posted on 26 Feb 2014, 15:21 - カテゴリ: 原発
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ノーベルの発明

原発先進国の米国では1979年のスリーマイル島の事故以来、1基の原発も建設されていない。英国やヨーロッパでも衰退の方向だ。原発を欲しがるのは、むしろ原発後進国。電力よりも、それにまつわる核技術が欲しいのだろう。もともと原発は原爆製造機だった。ウランを燃やしてできるプルトニウムが長崎型原爆の原料となる。そのさいの廃熱を利用したものが原発となる。

原発を欲しがる後進国の思惑を知りながら、先進国は原発を売り付ける。原発の技術を与える代わり、「核兵器は開発しないこと」という誓約を条件にするのだが、お互いにキツネとタヌキの馬鹿し合いの関係かもしれない。

そんなに欲しがる核兵器も、実を言うと使い物にならない。およそ兵器は敵を殺傷しても、味方に害を及してはならない。ところが核兵器を使って街を破壊したとして、そこに踏み込むことができない。これが細菌兵器だと、特効薬も同時に開発しなければならないはずだ。残念ながら放射能にはその術が無い。

細菌兵器や化学兵器はすでに国際条約で禁止されている。「人道的に」ということもあるが、もともと兵器として実用性に乏しいからだと、私は想像する。

そう考えると、核兵器が禁止されないのは、たいへん不思議なことだ。核は使えないけど「抑止力」とは、奇妙な論理だ。使えないのなら、何の脅しにもならないと、私は思うのだが。



ノーベルはダイナマイトを発明して財を成し、ノーベル賞を設立した。その彼の発明とはどんなものだったか。彼は爆薬の威力を高めたわけではない。爆薬の保存、運搬中に、それが爆発しない工夫をしたのだった。

核兵器を欲しがるなら、除染技術の開発こそ先にやるべきことではないか。原発を動かしたいなら、核のゴミ処理方法の確立が先ではないだろうか。


Posted on 6 Feb 2014, 14:14 - カテゴリ: 原発
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